アウトレット 竹久夢二・激レア千社札!?(戦前戦後・すり孝・千寿)木版手摺り2点額※大正ロマン美人画 初代集古庵(二代目志ん馬)落語寄席文字関連

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竹久夢二は〝大正ロマン〟の象徴である。愛と悲しみ、漂泊の詩人画家が果たした役割は実に大きい。さて、今回のお宝蔵出しは、その竹久夢二の千社札額である。作品を保護しているこの額は、縦24・5×横18センチで、中に納めた二枚の千社札(台紙貼)は縦15・5×横11センチで、千社札一枚の寸法は縦14・5×横5センチとなっている。今回出品した志ん馬ゆかりの千社札は、のちに集古庵を名乗る二代目志ん馬の趣味人宣言にあたるものだ。詳細は御用とお急ぎのなき御仁は、下記をとくとお読み遊ばれたし!【千社札の説明】かつて、ある落語家の古い千社札コレクションの一つで、竹久夢二の古い千社札(!?)である。かなりの年代物の手摺木版画と思われ、摺職人・版木職人のすり孝・千寿の名が入っている。竹久夢二の多くの作品には、こうした職人名は入っていない。特別な意味や意義あったものと推察できる。2点額付で、一点は夢二の美人画で、もう一枚は瞼を閉じて合掌している。もう40年近くも前だが、新聞記者の駆け出し時代に、東京・神田神保町の交差点近くの山田書店の御主人から、浮世絵鑑定のコツの御教示して頂いた。同店の2階で、江戸期の浮世絵をはじめ、神社仏閣に納める単色刷絵など、さまざまをお見せ頂いた。素人眼には極彩色カラーの浮世絵に目が惹かれたが、淡く薄い彩色の方が手摺り難しいそうだ。また屋号や摺職人の名前を墨摺りしてあるものは、それなりの逸品が多い。さらに、千社札は浮世絵と違い復刻されることがないので希少なことも知った。【二代目志ん馬の軍部台頭時の千社札邂逅】「噺家は、世情の粗で飯を食い」という俗語がある。一説には、最初に使われれのは大正デモクラシーの頃である。国民は当時、日清日露と十年に一度の戦争で重税と厳しい統制下に置かれ疲弊していた。旧態以前の悪しき政治と、軍部権力の専横に、庶民は一斉に反発していた。おりしも、大衆運動は、国民に民主主義的改革を自覚させ大きな潮流となった。御維新後、徳川の封建的な世は終わりを告げたが、万機公論と臣民の平等を理想とした〝五箇条の御誓文〟は、薩長藩閥政治が温床となり夢と消えた。その精神の復活が、大正デモクラシーである。多くの国民は元老や貴族院、枢密院や軍部、検察や警察などの権限を弱め、民意を反映させる普通選挙法の制定を目標に掲げた。お上の言いなりであった庶民感情は、正義と筋の通った政治を盛んにさせた。その発露は、大衆芸能の落語にも、大きな影響を与えた。その最たるおもしろき落語家が、二代目の志ん馬である。庶民の鬱憤を、志ん馬は寄席の高座から、威勢よく放ち、客の皆から拍手喝采を浴びていた。改憲派の噺家・志ん馬は、当時、寄席派閥の睦会が、強く推進していた月給制度に反対し揉めにもめて睦会を離脱した。ワリに合わぬ安い月給制度に反対派を集めて誠睦会を設立した。「言論の自由」とは、志ん馬に言わせれば「悪口の自由!」である。しかし、その自由は普通選挙法を帝国議会が認めたのと引き換えに、稀代の悪法といわれた治安維持法がまかり通り、志ん馬の高座での悪口の自由は奪われた。誠睦会が失敗し、昭和に入り志ん馬の人気がガダ落ちしたのはこのためである。噺家として成功することなく、志ん馬は昭和初年に高座から退いた。その後、粋筋出で生活力もある賢夫人の援助もあり、千社札にのめり込み『納札大王』の異名が風靡するほどの蒐集家となる。落語『紺屋高尾』『幾代餅の由来』ではないが、たかが紙に描かれた女に心を奪われことが大正ロマンのみぎりにもあったのだ。モノ言えぬ言論の不自由な軍国主義下では、警察や検察の検閲でも、「表現が不適当」や「非国民」などと弾圧できないよき逃げ場が、収集趣味の世界であった・・・。賢夫人のもう一つの功績は、圓朝の寄席関連の遺品継承者の橘之助・圓夫婦の一切の面倒をみたことだ。それらの圓朝遺産は納札大王(志ん馬)のコレクションと一体化し、自らを〝集古庵〟と号した。さらに、その遺品は橘流寄席文字の家元・橘右近が引き継ぎ、右近は二代目集古庵を名乗った。【竹久夢二について】夢二は、明治17年(1890)に、岡山県山深い本庄村の酒屋の子として生まれた。本名は茂次郎。少年の頃から、酒を介した男と女の愛欲の始末が周囲にあふれていた。神戸中学に進学するも、一家は稼業が破綻し九州八幡に引っ越す。夢二は家出して上京。東京は真珠のように輝いて見えた。早稲田実業へ進学。明治38年年(1905)本科3年から専攻科に進み、荒畑寒村(のちの社会主義者)らと交友を得る。また白馬会洋画研究所に通い、『中学世界』に投稿し、『ハガキ文学』のコマ絵に応募し入賞した。それを機に島村抱月主宰の『東京日日新聞』の「月曜文壇」や『早稲田文学』などで仕事を得て学校を中退した。明治40年(1907)、日刊『平民新聞』に風刺的コマ絵や川柳などを寄稿。また、雑誌『婦人クラブ』や『少女の友』の表紙絵が評判となり売れ行きを左右した。新婚生活後には、たまき夫人をモデルに〝夢二美人像〟の創画を開始した。雑誌の挿絵も多く描き、作家の分野でも詩、歌謡、童話など創作。さらに書籍の装幀、広告物、日用雑貨、浴衣等のデザインも手がけた国民的な人気を得たが、ある種の軍人や警察などからは軟弱堕落の謗りを受けた。明治42年(1909)の『夢二画集 春の巻』以後、夢二画集や詩画集を続々と刊行して世の若者や婦人層を魅了した。また『どんたく』に収められた短詩『宵待草』は、のち夢二が多数装丁したセノオ楽譜が刊行され、彼の詩に曲がつけられて全国を一世風靡した。大正3年(1914)年、日本橋に港屋を開き、夢二デザインの品々に独自色を示し好評を博した。大正5年(1916)京都に移り、翌年から新たな愛人・笠井彦乃と暮らし始める。帰京後、彦乃との愛をテーマにした恋歌集『山へよする』を刊行するも、出版後にお葉との愛の時間が始まる。かように、夢二はことのほか情愛深く、別れと悲哀を背負いつつも、恋に彷徨する生き方を生涯まっとうした人生であった。詩人画家としての彼の本領は、浮名を流した女を自らの創作の地肉にしたことだ。彼は遍歴の旅を重ねていくうちに、独特の美人画を形成した。その表情には、えも言われぬ憂いが漂っていた。軍靴の足音が日に日に高まる御時世にあっては、爽快さと対照にある物哀しげさが見る人の心にズッシリと刻まれた。軍国主義高まる、昭和9年9月1日、信州にある高原療養所で肺結核により他界した。代表作は『黒船屋』『長崎十二景』『青春譜』『立田姫』『旅』『裸婦』『二の腕』『逢状』『晩春』『朝の光へ』『日本之雨』『黒猫』『舞妓』ほかがある。岡山市中区に夢二郷土美術館本館。生地・邑久には夢二郷土美術館分館があり、群馬県渋川市には竹久夢二伊香保記念館、東京・文京区弥生には竹久夢二美術館がある。今や夢二の絵葉書やカード、Tシャツ、シールなど各種グッズをはじめ、精巧な印刷製品やリトグラフが世に溢れ人気は衰えていない。3年後(2024)には、生誕140年の佳節を迎える。【本品の状態と送料に関して】状態に関しては、貼付写真をとくと御覧下さい。かつて、橘右近師とも付き合いのあった演芸関係者のコレクションの一つで、大切に保管されていたので、小生の手元に届いた時にも、すこぶる「良好」な状態であった。精一杯の御説明をさせて頂いたので、ノークレーム・ノーリターンでお願いしたい。送料に関しては、当方が負担サービス致します。

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